第76回
歌謡曲とロックを融合させた〈歌謡ロック〉を確立し、一大市場を開拓したパイオニア!
2018/05/24
その訃報の第1報が私のところに入ったのは翌17日午前10時半頃、旧知の新聞記者からの電話だった。「西城さんが亡くなったのでコメントを下さい」という依頼だった。これを皮切りに立て続けに同様の依頼が入った。結果的に、私のコメントは読売新聞、産経新聞、毎日新聞、東京中日スポーツ、スポーツ報知などに載ることになる。
〈歌謡曲とロック融合させた〉(東京中日スポーツ)〈歌謡ロック先駆者〉(スポーツ報知)〈歌謡ロック開拓〉(毎日新聞)などだが、歌謡曲とロックを融合させた〈歌謡ロック〉を開拓し、新しいマーケットを作りあげた、という私の分析が好まれたようだ。
正直言って、〈ライブ・カルテ!〉でいつか西城秀樹さんのライブ評をきちんと書いてみようと思っていた。しかし、これでその機会は永久に失くなってしまった。残念なことだが、だからこそ、ライブ評のかわりに追悼文を書くことで西城秀樹という“スーパーアイドル”を私なりに評価してみたい。
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「歌謡ロックを確立したパイオニア」
西城秀樹さんが「情熱の嵐」「激しい恋」「傷だらけのローラ」などでブレイクするまで“歌謡曲”は自作自演が主体のフォークやロックに比べると音楽性が低いと揶揄されていた。なぜなら、プロの作詞作曲家が作った曲をただ歌っているだけで、フォーク、ロック・アーティストのように自分のメッセージがないと思われていたからだ。いわゆる“お人形さん”、そんなレッテルを貼られた扱いがそれまでの“歌謡曲歌手”だったのだ。
しかし、そんな歌謡曲にロック色の強い要素を取り入れ、歌謡曲とロックを融合させたニュー・ジャンルともいうべき“歌謡ロック”を確立したパイオニアが西城秀樹さんなのである。しかも、その歌謡ロックを一大マーケットにしてビッグ・ビジネスにしたのも西城さんで、これは彼の大きな功績と言っていい。
「パイオニアならではのチャレンジが新境地開拓!」
もちろん一朝一夕にしてなったのではない。パイオニアならではのチャレンジがあったればこその新境地開拓である。
歌謡ロック確立にあたり、彼はそれまで誰もしていないことにチャレンジした。彼の代名詞ともいえる絶叫系の歌唱スタイルや、スタンドマイクを振り回し蹴り上げるアクションなど、いろいろな要素をいち早く取り入れて“歌謡ロック”という新しいパフォーマンス・スタイルをひとつずつ作っていった。
また、現在では当たり前になっている、球場における野外ステージやアリーナ・ライブなどのビッグ・イベントも、実は彼がパイオニアだった。74年の大阪球場での野外ライブは、矢沢永吉の後楽園球場ライブに先駆けること4年である。80年の後楽園球場ライブでの、40メートル以上のクレーン車で登場する演出には度肝を抜かれたものだ。
「新しいパフォーマンス・スタイルを創造!」
絶叫系ボーカル、スタンドマイクをはじめとした大胆なアクション、「ヒデキ!」と観客から声が飛ぶコール&レスポンスなど、彼による新しいパフォーマンス・スタイルは、マニアックになりがちなロックを普通の人でも聴きやすくして、歌謡曲ファン、ロック・ファンの両方を魅了し引きつけた。だからこそ、世代を超えたスーパースターになりえたのだ。
彼が“歌謡ロック”というジャンルを切り開き新しいマーケットを確立したからこそ、彼に続く田原俊彦、近藤真彦、さらに現在のアイドルたちが活躍できる場が存在しているのだ。野茂英雄投手がいたからこそ、日本のプロ野球選手が大リーグで今活躍できるのと同じことである。その意味では、彼は偉大なアーティストだと言っていい。
「ゴール寸前で残念でならない!」
人生の第4コーナーを回って直線コースに入ったところで、自分なりのゴールは見えていたはず。そのゴールを見すえて自分なりの走り方をしよう、と思っていた矢先に残念でならない。彼には直線コースが長い競技場で思う存分に走ってほしかった、と思うのは私だけではないだろう。
(文/富澤一誠)
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