第65回
加藤登紀子であり続けること、それが〈ほろ酔いコンサート〉の原点!
2017/12/14
時代と彼女を結びつけたきっかけとなったのが〈ほろ酔いコンサート〉ではないか、と私は思っている。〈ほろ酔いコンサート〉のきっかけを彼女はこんなふうに語っている。
「新聞記者の皆さんが私をたきつけたんです。『知床旅情』で紅白歌合戦に出て、レコード大賞の歌唱賞を受賞して、だんだん加藤登紀子がお墨付きになってしまうのは良くないようなご意向があったんです。道端で歌っているような加藤登紀子でなくちゃダメだっていうのがありました」
「その頃、日劇ミュージックホールの支配人からオファーがあったんです。浅川マキが日劇ミュージックホールに出ていて、私が浅川マキの楽屋に遊びに行ってたもんですから、それで『お登紀さんもどうですか?』と誘われたんですが、スケジュールがタイトだったので、お断りしていたんですが、『だったら1度だけでも』ということになったんです」
「1971年12月、〈ほろ酔いコンサート〉の原点がスタート!」
こうして1971年12月、日劇ミュージックホールで〈ほろ酔いコンサート〉の原点ともいうべき〈TOKIKO22時〉は行なわれた。
「最初はみんなにワーワー言われて『夜中にシラフはないだろう』って。その頃、大関さんのCMソングを歌っていたので、お話したらとんとん拍子に進んで『ではただ酒をふるまいましょう』ってことになって、それでお客さんにお酒をふるまうことになったんです」
日劇ミュージックホールでのコンサートは高い評価を得た。「加藤登紀子が加藤登紀子になった」ということは、単なる〈流行歌手〉から〈オンリーワン〉への道を歩み始めたということだ。
しかし、翌72年は〈ほろ酔いコンサート〉がなかった。72年は結婚、そして12月には長女が生まれたので活動は休止状態だったからだ。そして73年夏に歌手活動を再開。加藤登紀子らしく再び一歩を踏み出すためにはどうしたらいいのか?彼女が出した結論は〈ほろ酔いコンサート〉を意志を持って始めることだった。
「1973年に歌手として復活しようっていう決心を固めたときに、本格的にこのコンサートをやろうと決めたんです。まだ〈ほろ酔いコンサート〉とは銘打っていなかったんですけど、お酒付きの〈花開く30歳〉コンサートは、私が本格的に酔っ払いながら歌うっていう意図を持って企画されたものです」
「加藤登紀子は加藤登紀子であるように」
こうして〈ほろ酔いコンサート〉は正式にスタートした。その原点はあくまでも「加藤登紀子は加藤登紀子」であるようにということだ。こうしてスタートしたこの企画は評判が評判を呼び大阪、名古屋から声がかかり全国に広がっていった。
本格的に復帰した彼女は〈オンリーワン〉の道をひたすら歩み続ける。その後、彼女は民族音楽に凝り始め、中近東を旅行し、遂には長谷川きよしとデュエットした「灰色の瞳」をヒットさせたり、マレーネ・ディートリッヒの反戦歌「リリー・マルレーン」、ロシアの歌「百万本のバラ」、フィリピンの歌「ANAK(息子)」などを独自の解釈で再生し、命を与えてたくさんの人々のハートをつかみ続けている。
その意味では、彼女の歌には全て背景があり、だからこそ〈時代の歌〉なのだ。“いい曲”が彼女の新しい解釈で歌われると加藤登紀子という〈文化〉になることはすごいことである。
「〈ほろ酔いコンサート〉をぜひ体感して欲しい!」
加藤登紀子にとって〈ほろ酔いコンサート〉は歌を〈文化〉に昇華するための精錬所かもしれない。そこから〈オンリーワンの世界〉が生み出されるのだ。彼女は今後どんな作品を生み出すのか? 時代の波をキャッチし、時代の空気をすくいとり、時代に彩を添えるために、彼女は今何を見て考えているのだろうか? そのヒントは〈ほろ酔いコンサート〉の中にある、と私は考えている。
今年の〈ほろ酔いコンサート〉は11月18日に沖縄から既にスタートしているが、まだ残されている。12月15日・宮城・仙台記念館、17日・京都・テルサホール、22日&23日・名古屋・中日劇場、24日・大阪・梅田芸術劇場、そして27日&28日&29日・東京よみうりホール。まだ見ていない人は自分自身でぜひ体感して欲しいものだ。
(文/富澤一誠)
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